能が大成してからおよそ650年。それはとても長い時間のように感じるかもしれません。ですが、「翁」の源流は、それよりはるか古くまで遡ることができます。
「翁」のなかには、縄文時代にまで届く深さや、ユーラシア大陸をつなぐ広がりが秘められています。そこに共通するのは、世界を言祝ぐ祈りのかたちといえるかもしれません。
様々な演者が登場し、舞台を清め、世界を言祝ぐように謡い、舞う「翁」。
その一つ一つの意味するところは多くの謎に包まれています。
しかし、「翁」の厳かな緊張感や力強い声、笛の響きや鼓のリズムは、ほかでは得難い清々しさを私たちに与え、感覚的に楽しむことができる演目でもあります。
それは、そこに私たちのルーツが隠されているからなのかもしれません。 ここでは、様々な魅力が詰まった「翁」を簡単に紹介します。 「翁」の構造、詞章、評論などを1冊にまとめた『翁の本』もぜひご覧ください。
今日の能にはおおよそ200曲前後の演目が伝えられています。
これらの演目は初番目物、二番目物、三番目物、四番目物、五番目物という5つに分類されます。これらは主人公の役柄から、神・男・女・狂・鬼に対応しています。
ですが、「翁」はこの5つの分類のいずれにも属しません。
正式な上演の際には、一日の最初にかならず「翁」が舞われ、そのあとに初番目物にはじまり様々な能や狂言が演じられました。
また、「翁」の公演に先立って、演者たちは「別火」と呼ばれる精進潔斎を行うほか、開演直前にも、舞台袖で身を清める特別な所作が行われます。
こうしたことからも、「能にして能にあらず」といわれる「翁」が、能楽のなかにおいても別格であることがわかります。
「翁」とは、翁と三番叟が順に舞台にあらわれ、天下泰平国土安穏、五穀豊穣を謡いと舞によって祈る演目です。
その舞台は、厳かな空気感のなかゆっくりと進行する役者たちの入場にはじまり、やがて翁役者が舞台正面で拝礼をします。
囃子と謡いがはじまり、まもなく若者の役の千歳が露払いの舞を舞います。その後、白い翁面をかけた翁が「天下泰平国土安穏」を祈る謡を謡い、舞います。
翁が去ったあと、三番叟があらわれ足拍子が印象的な舞を舞い、黒い翁面をかけた後、鈴をもって舞います。これらは土地を耕し、種を撒く所作のようでもあり、五穀豊穣を祈るものともいわれます。
「翁」に登場する主な役には、面箱持、千歳、翁、三番叟(三番三)があります。
面箱持は、翁面などを納めた面箱を舞台まで運ぶなどの役割を担います。千歳は、若い役者によって演じられ、翁に先立って舞台の露払いをする〔千歳ノ舞〕を舞います。流派によっては、千歳が面箱持を兼ねます。
「翁」の主人公というべき役です。白い翁面をかけ、「天下泰平国土安穏」を祈る謡を謡い、次いで、〔翁ノ舞〕という祝福の舞を神々しく舞います。
「翁」後半の主人公といえます。面をかけない状態(直面)で〔揉ノ段〕を舞い、黒い翁面をかけて〔鈴ノ段〕を舞います。
《翁図》赤星閑意 江戸〜明治時代(19世紀)永青文庫蔵
能は面を用いる芸能です。通常の演目では、面をつける役者は舞台に登場する前から面をつけています。ですが、「翁」では役者は舞台上で面をつけ、舞が終わると舞台上で面を外します。翁面はご神体とみなされており、役者は面をつけることで神格を得ます。
翁面には、翁が用いる白い翁面・白色尉(白式尉)と、三番叟(三番三)が用いる黒い翁面・黒色尉(黒式尉)とがあります。いずれもにっこりと笑った表情や深い皺、長い髭が特徴です。顎の部分が切り離され、紐でつながれていますが、こうした構造は切り顎と呼ばれます。通常の能面・狂言面にはないもので、より古い姿を留めたものといわれます。
重要美術品《翁(白色尉)》
「日光作/満昆(花押)」金泥極
室町時代(15世紀)永青文庫蔵
《三番叟(黒色尉)》
室町時代(16世紀)
永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
「翁」は、様々な謎に満ちています。
どうして白色尉と黒色尉とがいるのでしょうか。
どうして翁面は笑っているのでしょうか。
どうして翁、つまりは老人が舞うのでしょうか。
いまのところ、こうした疑問への明確なこたえはみつかっておりません。
ですが、「翁」を通して、神や仏そして自然に、
人間の健康と世界の平和を祈る。
そういうことが、これまで何百年も続けられてきました。
いつの時代にも求められるものがそこにはあるようです。
翁プロジェクトは、現代が抱える様々な課題へのヒントを求め、
「翁」を探っていきます。
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